https://minohdon.jp/@hinketu/104255912704509930
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これは因果が逆で、「人権を守らないといけない」という理屈が先にあるのではなく、「人間がひとつの知的生命として尊重されていると考えるのに必要な、個々人が持てるべき権利」を整理したものに人権という名前が与えられている
だから「人権を侵害する存在が悪」なのではなく、「人間を人間として尊重しない存在が個々人にとって悪」なわけです。
人権侵害を肯定する政府というのは、すなわち「人間を人間として尊重しない (道具としてしか考えない) 政府」であるわけです
だから「人権を侵害した政府が経済的に良い成果を出している」とか「(今のところはその強権が荒ぶっていないので) 幸福そうに見える」というのは、結局「国家の家畜が、国家の生存のために飼われている」というだけに過ぎないわけですよね。
もちろん家畜だって幸福を与えられることはあるかもしれないけど、それは飼い主の都合でいつだって奪える仮初めのものにすぎない。
で、「我々は別存在の家畜になりたくない」という割と深刻な欲求を満足するために政治的に「人間を家畜扱いするな」というシステムを作り上げた結果が、民主主義と人権という概念なわけです
だから「民主主義以外にも人権侵害を認めない、またもし人権侵害があったとして自然とそれが矯正されるような政治システムがあるかもしれない。だから民主主義は絶対ではない」という話であれば確かにそうですねとなるけど。
「独裁下でも人々は幸福になれる。だから民主主義は絶対ではない」という意見は、人権侵害を阻止すべしという観点からして受け入れられないというわけ
もういちど別の言い方で強調しておくと、「民主主義は人々を幸福にするから偉大である」なんて話ではなくて、「民主主義は人々を家畜扱いしないし、家畜扱いする政府を打倒するアクションを許容する自浄作用のあるシステムだからこそ偉大である」という話なんですよ
だから、まず根本的なところで、「(今この瞬間に) 人々が幸福であるかどうか」は政治システムの良し悪しを論じるときに第一の指標とすべきではない。
それよりも優先して「(今も将来も) 人々が家畜や奴隷として扱われることを認めない存在でありつづけるか」というのが政治システムを許容できるか拒絶すべきかの第一の判断基準で、独裁はこの基準で却下される。
じゃあ何故「私が家畜扱いされない」ではなく「誰も家畜扱いされない」を目指すのかといえば、それは単純に「私が」はいつか覆る可能性が高いし、結局のところその保証はあまりに壊れやすいから、全員に対して同様に保証する方がシステムとして堅牢になるからでしょうね。
家畜扱いされたくないあらゆる人々が同盟を組んで同じ「人権侵害を認めない」という目標に向かえるので。