ミクロなレベルではそうで (たとえば「食糧自給率を高めたいなら〜すべき」とかもそう)、ただそれは “社会をよくする” という大前提のような暗黙の目標を破棄して「食糧自給率を高める」という隔離された文脈を設定しないといけないよね、という話でした
個々の目標について何をすべきか、そのうえで何が優先されるか、本当に “十分な” 情報と前提や文脈の共有があれば思考者に依存しない結論を出せるかもしれない。
でも、 “社会をよくする” ことを目標に据えたとき十分な情報も前提や文脈の共有も無理な話なので、思考者に依存した結論しか出せないはず、ということが言いたかった
だから、私は人生や社会や人々を良くすることを (直接であれ間接であれ) 指向するあらゆる行動について、その客観性を信じない。
そのうえで自分にとって都合がよい (これは経済的/身体的利益を得られるというだけではなく、信念を満足するかという精神的な利益も多分に含まれる) ものを選択的に「妥当な判断である」と称しているし、その判断の裏に潜んでいる「自分の価値観」の存在を常に自覚するようにしている
人々が社会について考えるという文脈で、主観不在でも結論が変化しないという意味での客観的な判断を妥当なものとして共有できるということを、私は信じていない。
だから、社会について論じるとき主観を排除しているかのように装う言説を、自覚的であれ無自覚であれ根本的には状況を適切に (少なくとも私と互換な形で) 捉えていないと考えてしまうし、それゆえ信頼性にはマイナスの影響を与えて受け取ってしまう。
まあべつに私の価値観と非互換であることが “客観的に誤り” であるとも考えないし (何故なら自分の価値観が主観的であることを受け入れているので)、畢竟「他人は他人であって常に私と “最善” の判断を共有することにはならないだろう (たとえどれだけ理性的であろうとも)」という話になる。他人に期待しなくなるということです