たとえば極論で「私は人権なんて必要ない、政府は善良だから市民は政府に徹底的に管理されるべきだ」みたいなことを思っている人がいたとして、各々の望むことを大事にして、政府による管理を望む人には管理されさせてあげよう、なんてなります?
ここで致命的なのは、一度管理下に置かれてしまった人間がそこから脱出することは基本的に困難であるということで、政府が善良でなくなったあともその一方向性は継続するわけですね
思うに、(人権とかの文脈での)自由というのは、「私は現状で困っていないから、足りないと思う人だけ何かすればいいじゃん」とか「私はそんな自由なくても不満はないので放っておいて」などといったような opt-in なものではないはずなんですよ
自由というのはデフォルトで誰もが確保しているべきで、特別な理由(たとえば他者の自由との衝突)があったときはじめて、渋々制限せねばならないというものなので
であれば、分散の意義をプライマリには(計算リソースなどの観点による実利などでなく)他者による不当な権利制限リスクからの自由であると捉えるなら、「分散が大事だと思った人だけやればいいじゃん、私は/人々は自由なんて必要としていないから放っておいてくれ」というのは、おまえそれ本気か? という気持ちになってしまいますね
や、無論 Mastodon の寄合所帯インスタンスについての文脈で言えば、「逃げる」ことは極めて容易なので、そこまでの積極的な姿勢は要求されていない場合が多いんだけど、じゃあ実際その人が逃げたとして自由が確保できるのかといえば、どうせ他の寄合所帯に登録するくらいしかできない人々がほとんどなんでしょうね……それってあまり良い状態ではなさそうというお気持ちがある
まあ別に SNS で自由の確保を諦めるというのもひとつの手だし、そういう意図で言うなら SNS に分散が要らないという話もわからんでもないけど、同じ理屈で出版に自由は要らない(誰もが出版するわけではないし言論に必須でもないから)とか、任意の○○は「必須」ではないわけだけど、そこに自由は要らないんですかと