こと “社会” について考えるとき、最終的な判断の根拠のチェーンが最後には自分の信念や世界観に繋がっているのは避け難いことだし、観測と予測以外のあらゆる判断や決定は属人的なものであると言わざるを得ないのでは
その属人的な考えが多くの人々からの、あるいは当人が理性的であると判定するような対象の人々からの共感を得られるかというのはまた別の話であって、属人性を証明するものでも否定するものでもない
すごく雑なことを言うと、社会が一貫した原則に基いて構築を試みられるべきだというのも無数に考えられる価値観のうちのひとつに過ぎないし
目的、要求、意義、価値、そういう “解釈” を通した上位レイヤーの概念を扱う限り、その根拠のチェーンの根幹が “客観的” であることはないだろうし、これは絶対に避けて通れない問題のはず
もちろん、あらゆる環境や人間の内部状態についての情報を持つラプラスの魔めいた存在として社会の動向を “予測” するだけであれば、それは原理的には可能なのだろうけど (低次な言葉で言えば物理的なエミュレーションになるし、高次な抽象化をかけるなら人々や “社会” のエミュレーションということになる)