私はこういう文脈でよく「必然性」とか「正当化」という言葉を使うんだけど、人間と機械が同じ成果物を出せるとしてどちらに魅力を感じるかというと、正当化可能であるか、どちらがより必然性のあるものか、という観点で評価しがちなところがある
たとえばプログラムで言うなら、あらゆる構造、行、名前、そういったものに「そのように作った/作られた理由」があるはずで、それを説明できるかというのが第一段階、その理由が更に別の目的や評価基準において優れているかどうかが第二段階、という感じで物を考える
「演算をなんとなく入れ替えてたら、うまいことテストを通った」というコードは、たといどんなにエレガントで短かかろうと、それが (後付けであれ) 説明可能でない限り良いものとは評価しない、という立場
コンテンツについても、性質はだいぶ違うけどおおよそ似たようなところはあると思っていて、その小説の1行が、その漫画の1コマが、そのイラストの1ピクセルや1つの小物、1つのポーズが、どういう意図でそのように置かれたのかを説明できる方が素晴らしいと評価できると思っている
それは結局のところビットマップそのものではなく「何らかの一貫性や信念をもって構築されている」というメタな性質を評価しているのかもしれないし、それを不純だとする立場も理解できるものではあるけれど。
でも結局人間が今のところエーアイより優れている場所って、まさにそこなんじゃないの? とはずっと思ってる
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これ直感ではなく理性により与えられる “魅力” だよな、それってどうなんだろう、と思ったところで “eye candy” という概念を思い出して言語化が完全にうまくいった。
説明不能なエーアイにより生成されるイラストは舐めてすぐに甘いものではあるかもしれないが、噛み締めて美味いものではないということだ。
私は人間であることを誇りに思う各位に、舐めたときの甘さや舐めたくなる見た目で勝負するのではなく、咀嚼して美味いと思えることの価値をアピールしてほしい。そういうこと。