他者あるいは権力による統治ってやつは最終的にイデオロギーによる排斥に発展するだろうから、そういった排斥可能性自体を排除することをイデオロギーとして据えるべきだ、みたいなことを (当時から、あるいはもっと前から) ぼんやりと考えていたなぁというのがある
独裁国家で生まれ育ち西側諸国の情報に触れずに育ってきた人々は、優れた指導者による独裁こそ人々の幸福を求める正しい国家の在り方だと信じて疑わないかもしれない。で、じゃあ民主主義国家を赤く染めるべく戦争をすることは正当化されるんですか? そして西側諸国が独裁国家を批難する構図は相対化したとき同じような状態になっていやしないか? と……
テロリストなんかは “叩きやすい” のですーぐ叩かれるが、じゃあ独裁国家を批判的に調査・報道するジャーナリストが晒されている危機と防衛手段をどう説明し正当化するんですかと
「反政府テロリストや工作員を、良心に従って行動するジャーナリストと “適切に” 区別できる」というのは大いなる思い上がりだし、そんな建前を機能する状態で弾圧者に渡して良いわけがない
「判定と排斥」の機能を権力中枢から奪うことによって、やっとこさ “権力による不当な弾圧” ってやつを阻止することができる。もちろん代償として悪意への耐性が弱くなるが。
物理テロに弱くなるという話だとさすがに躊躇せざるを得ないが、インタネッツの SNS くらいだともうちょっとアグレッシブに弾圧耐性を持たせたって良いのではないかという気持ちにはなるね。
そしてパーソナルなメッセンジャーはおそらく境界領域にある