エーアイってやつ、ユーザを徹底的に消費者の位置に置こうとすることによって与えられる無力感みたいなのある気もするんだけど、じゃあ従来のツールで消費する立場ではなかったのかというとべつにそんなことはないんだよな
何でしょうね。常に次のアクションとして yes/no からの選択が出てきやすいのが問題なのか?
何か工夫を凝らして入力を弄ったところで、次の瞬間には「この解答や生成物でいくか否か」の yes/no 選択がやってくるところ。
でも単にそれだけだと「人の手のあたたかみ」への信仰でしかない気がして、たぶんそれ以外の要素もあるのだとは思うが。わからん。
手間がかかればいいというものではないのだよな。
であれば、「非自明なプロセスの責任の所在を奪われている」ことによる無力なのか?
たとえば自明な効果を持つ原始的な道具だと、非自明な結果を得るためのロジックを道具の利用者たる人間が持っていることになるが、高度なエーアイを使うとその入出力の関連自体が既に非自明というか低レベルな構造から説明しづらいものになっているので、それが「非自明の根源であることを奪われている」という感覚に繋がると。
創造性 (あるいは人間性) とは非自明な入出力をできる能力のことなのか?
なーんかそれはそれで飛躍してる気がするけど、手を動かさずに考えても得るものがない気がしてきたのでもういいか……