これは解釈の問題な気がしていて、たぶん「エーアイ生成と思わしき文章は検証の価値がない」と言いたいのだと読み取った
どんな情報であれ、それがバベルの図書館から持ってきたサルの乱打によるものであっても高名な先生の書いたものであっても、文章として成立していそうならそれは検証なり解釈と深読みなり何らかの処理をしたうえで受け取ることになる。
しかし検証前に価値があるか判断することは普通に無理なので (テキトーな嘘で学びを得られないものなら価値はゼロで利益はマイナス) 期待値で事前に判断するのとそもそも期待値が上がるように情報収集することによって、「分の良い賭け」に持っていく必要がある。
で、明らかにエーアイ製な情報には正しいものも誤ったものも、正しそうに見えて実は誤ったものもあるが、その検証コストと得られる価値の期待値をどう評価するかって話でしょ
なので、「エーアイ製でも正しい情報はあるし人間でも誤りはある」みたいなのはそもそも論点が違っていて、「エーアイ製と人間製どちらが期待値が高いか」で考えないといけない。これはもちろん情勢により変化するバランスだから普遍的な解はないが、少なくとも「エーアイでも正しい情報はあるが、検証コストと期待値のバランスを考えると人間によると思われる記事ほどには釣り合わない傾向がある」は (真実かをさておき) 妥当な主張に見える
あとは普段どういう分野で情報を必要としているかにもよると思うので、そこも本当は前提の文脈として明示する必要がある。みんなこれをサボるので合意形成あるいは相互理解に至らないが。
正しいとか間違っているとかそんな局所的な二元論に持って行っちゃったら、そんなのケースバイケースとしか言えないに決まってるし、そもそも行動戦略に反映しようがない虚無の論じゃないですか
べつにエーアイでなくとも「侍ナントカ塾の記事は信用しない (正しい可能性もあるが期待値が低いし検証コストが得られるものと釣り合いそうにないのでそもそも読まない)」みたいなことはみんなやってるわけで、今に始まった話ではない